みなさんは「弥助(やすけ)」というサムライをご存知でしょうか。

今から遡ること440年ほど前、弥助は織田信長のもとで家臣となり、のちに武士の身分を認められました。

驚くべきは、彼がアフリカ出身の黒人男性だったことです。

弥助は「サムライになった初の外国人」として、日本史の1ページに名を残しています。

しかし戦国の乱世に、なぜアフリカ人が日本にやってきて、どのようにサムライになったのでしょう?

また、弥助はどんな人物で、いかに歴史から姿を消したのでしょうか?

目次
戦国の世に降り立った「巨大なアフリカ人」
信長、「弥助」を大いに気に入る

戦国の世に降り立った「巨大なアフリカ人」

16世紀の戦国時代、日本には、ポルトガルやスペインから西欧人がたびたび訪れるようになっていました。

その中で、アフリカ出身の人々も、奴隷や召使いとして連れてこられたようです。

その一人として、弥助も日本にやってきました。

彼が日本史の記録にあらわれるのは、1579年のこと。

イエズス会のイタリア人宣教師、アレッサンドロ・ヴァリニャーノ(Alessandro Valignano)の視察に護衛として同行していました。

記録によると、京都に到着した弥助を一目見ようと、大勢の見物人が殺到したといいます。

戦国の乱世に実在した「アフリカ人初の侍・弥助」の正体とは?
(画像=イエズス会士に付き従う黒人の召使い / Credit: ja.wikipedia、『ナゾロジー』より引用)

徳川家康の家臣だった松平家忠も弥助を見たようで、そのときの日記には「肌は墨のようで、身長は6尺2寸あった」と書かれています。

6尺2寸というと、だいたい182センチです。

今は栄養価の高い時代なので、180センチ越えも珍しくないですが、当時の日本人男性の平均身長は157センチ程度でした。

ですから、漆黒の肌と巨大な体格を持つ弥助に、腰を抜かした人は多かったでしょう。

また、信長の一代記である『信長公記(しんちょうこうき)』には、年齢が26〜27歳ほど、牛のような黒い身体に、十人力の剛腕を持っていた旨が記されています。

弥助はどこで生まれたのか?

残念ながら、弥助の出生年や出身地についての記録はありません。

ただ、1627年にイエズス会の司祭が書いた『日本教会史』には、「インドから連れてこられた使用人で、出身はポルトガル領の東アフリカ(現モザンビーク)だった」とあります。

彼の主人だったヴァリニャーノは、来日前にモザンビークに立ち寄り、またインドに長く滞在していました。

しかし、弥助がモザンビークでヴァリニャーノに会ったのか、それともインドで会ったのかはわかりません。

なにはともあれ、ヴァリニャーノとともに来日した弥助は、1581年3月27日、彼の人生を大きく変える運命の出会いを果たします。

かの有名な織田信長に謁見したのです。

信長、「弥助」を大いに気に入る

信長が弥助をたいへん気に入っていたことは、非常に有名な話です。

ヴァリニャーノと共にやってきた巨大な黒人を見たとき、信長は「肌に墨を塗っていると疑い、目の前で服を脱がせ、体を洗わせた」といいます。

しかし、彼の身体は白くなるどころか、一層黒光りしました。

大いに興味を抱いた信長は、ヴァリニャーノと交渉して彼を譲ってもらい、自らの従者にしています。

ここで初めて、「弥助」という名前が与えられました。

戦国の乱世に実在した「アフリカ人初の侍・弥助」の正体とは?
(画像=紙本著色織田信長像(画・狩野元秀) / Credit: ja.wikipedia、『ナゾロジー』より引用)

歴史家のトマス・ロックリー(Thomas Lockley)氏によると、弥助は当時すでに日本語を少し話せたらしく、アフリカやインドでの経験を語って、信長を楽しませたといいます。

弥助は踊りも得意だったようで、英雄を称える歴史的な叙事詩「ウテンジ(Utenzi)」を披露したという。

ご存知のように、信長は熱心な「能」の愛好家であり、この異国の芸術にも感心したことでしょう。

また弥助には、イエズス会士と違い、日本人の心にキリスト教を持ち込もうという魂胆もありませんでした。

信長は弥助を家族のように寵愛(ちょうあい)し、家臣としては珍しく、一緒に食事をするほどだったといいます。

こうして、信長は正式に弥助を武士の身分に取り立て、「外国人初のサムライ」となったのです。

信長と出会って、わずか1年のスピード出世でした。

日本史から消えた弥助

戦国の乱世に実在した「アフリカ人初の侍・弥助」の正体とは?
(画像=「本能寺焼討之図」(画・楊斎延一) / Credit: ja.wikipedia、『ナゾロジー』より引用)

しかし、時は戦国の乱世。平和な時間はそう長く続きませんでした。

1582年6月21日、明智光秀による謀反「本能寺の変」が起こったのです。

なんとこのとき、弥助も本能寺に泊まっており、明智軍の襲撃に立ち会っていました。

逃げ場をなくした信長はここで切腹していますが、先のロックリー氏によると、自害する前、弥助に介錯(かいしゃく)を願い、自分の首と刀を息子に届けるよう頼んだという。

しかし、その真偽は不明です。

結局、本能寺は明智軍に制圧され、弥助も捕まりました。

ところが、光秀は弥助を処刑せず、「黒奴は動物で何も知らず、また日本人でもない故、これを殺さず」として、南蛮寺(イエズス会によって建てられた教会堂)に送っています。

これが、弥助にまつわる記録の最後となりました。

彼の史料は1582年でぱったり途絶えており、それ以降の消息は一切わかっていません。

一説では、イエズス会に戻り、日本を後にしたと伝えられています。

戦国の乱世に実在した「アフリカ人初の侍・弥助」の正体とは?
(画像=1590年代の硯箱(左の人物が弥助と言われている) / Credit: ja.wikipedia、『ナゾロジー』より引用)

しかし、弥助の人気は根強く、今でも小説や絵本、漫画、ドラマ、ゲームなどのキャラクターとして登場しています。

戦国の乱世に実在した「アフリカ人初の侍・弥助」の正体とは?
(画像=人気ゲーム戦国無双5に登場する弥助 / Credit:コーエーテクモゲームス、『ナゾロジー』より引用)

また、ハリウッドでの映画化も進んでいましたが、弥助役に起用されていたチャドウィック・ボーズマン氏(近年はブラックパンサー役で人気を博した)の急逝により、制作は一時中断されている模様。

「サムライ魂を持ったアフリカ人の物語」、ぜひとも完成を心待ちにしたいところですね。


参考文献

Yasuke – The African Samurai

Yasuke: The mysterious African samurai


提供元・ナゾロジー

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