学校は勉強するところでないと以前に書いたことがある。みんな学校は勉強をするところだと思っているだろうけど、学校はぜんぜんそんなところに重きを置いていないんだよという皮肉であった。けれども、これは教員を始め、教育行政も今なお大いに勘違いしている点であり、日本人にとっては悲劇でもある。

学校を勉強するところだと勘違いしている教育行政が招く悲劇
(画像=Tomwang112/iStock、『アゴラ 言論プラットフォーム』より 引用)

校長自身、クラスがうまくいっている理由がわかっていない

ある学級でいじめや学級崩壊が起きて隠しきれなくなった。そういうとき、校長が「これからは子供たちがわかったと喜びを感じるような楽しい授業ををすればそういった問題がなくなるので努力していく」などと保護者に言い訳することがある。

よい授業をすれば、いじめがなくなる、学級崩壊がおさまると思っているのだろうが、この時点でボタンの重大な掛け違いが起きている。問題はもっとずっと初歩的・基本的なものなのである。

校長は授業や学級運営のエキスパートだと思っている方も多いと思うが、実際は逆の場合が多い。学級運営がうまくできていたらのなら、管理職になろうとは通常思わない。

つまり、校長自身がなぜいじめや学級崩壊が起きているのがよくわからない、どうすれば回復するのかもよくわからないというケースがほとんどなのだ。あの先生の学級は毎年うまくいく、この先生はいつもうまくいかないということはわかっていても、なぜそういうことになるのかという理由はわかっていない。ゆえに学級運営が不安定な教員へのアドバイスも出せない。

もちろん授業や勉強は大事だが

学級を運営するのにあたって、重要なポイントを描いてみた。

学校を勉強するところだと勘違いしている教育行政が招く悲劇
(画像=『アゴラ 言論プラットフォーム』より 引用)

児童生徒と良好な関係を築くコミュニケーション能力がまず基礎にあって、授業などの教育技術(明快な指示とその徹底など)が土台となる。

それらをすっ飛ばしてよい授業などできようもないし、基礎と土台がなければいじめも学級崩壊もわりと簡単に起こる。

下部がガタガタでは、上部がうまくいくはずがない。結果が手段となっているのだ。よい授業ができるのは、あくまで結果なのだ。

それに勉強を効率よく進めるだけなら、われわれ教員は、東進ハイスクールやスタディサプリの足元にまったく及ばない。(知的好奇心の惹起といった意味でも遠く及ばないという自覚ももっておいたほうがいい。)

それに、近年の学生の教職忌避で、先生の学力こそあやしくなってきている。先日見た小学校の授業では、若い教員が低学年の児童に、クモは昆虫だとか、魚は動物ではないとか教えていた。もはやかけ算の順番どころの話ではない。

また、研修や研究では一般的にいちばん上のレイヤーである授業研究にしか焦点が当たらない。指導案(授業の台本)を書いたりとか、主発問(授業のメインテーマ)の内容が適切かどうか検討したりとか、それはそれで確かに重要なのだが、それだけ単独でできても学級運営はどうにもならない。

ようするに、教員をうまく育成できていないという現状認識が管理職、教委、文科省のどこにもないのだ。

GIGAスクール(一人一台のタブレットを配る)構想でできることは、先っぽの先っぽの話だ。結果、見当ちがいの人員配置と予算が積み上げられていく。これでは金はいくらあってもたりない。

文科省がそれに気付いたとしても、失敗とは認めないだろうけどね。

文・中沢 良平/提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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