「親ガチャ」という言葉が話題になっている。テレビでも取り上げられたようだ。

「親ガチャ」とはようするに、自分の両親や生まれた家庭環境は選べない、いうなれば完全な運任せであることを、ソーシャルゲームの「ガチャ(=クジ引き)」になぞらえたネットスラングである。(親ガチャ、反出生主義…若者たちは「人生のネタバレ」に絶望している)

「自分の現状を他人のせいにしている」という批判やも成り立つが、一方で若年層の生活満足度はかつてなく高まっているとのことで、ことはそれほど単純ではないようだ。

大人も子どもも、ネットやSNSで比較地獄に陥っている現代である。

また、努力よりも遺伝や環境のほうが成功要因として大きいという知見が広まったということもその失望に拍車をかけている。

このスラングが出てきた背景は、われわれ親世代が、自分や自分の子どもを客観視できていないということがあげられると思う。自分ができなかったことでも、ちゃんと指摘さえすれば、子どもはできるようになると思っている節があるように見受けられるのだ。

現代の子どもたちは、ある面ではあまりに聞き分けがよく、こちらが心配になってくる場面が多い。

これは自分の子どもを「価値がなければ認められない」というサインを無意識に送り続けているわれわれ大人の問題ではないだろうか。条件付きの愛情を注がれた子どもたちがすでに大人になってきていると言えるかもしれない。

また、集団を統率するという必要に迫られた方法とはいえ、われわれ学校の教員も条件付きで褒めることが多い。そして、それが行き過ぎて「発達障害バブル」になってしまっている。現在の特別支援級は、10年前なら対象にならなるはずのない児童生徒まで通っている。「教員の思うとおりに動けない子どもたち」が送り込まれているのだ。

幼少期の「価値がなければ生きている意味がない」という価値観の刷り込みはほんとうに怖いものである。

そして、「価値がなければ生きている意味がない」という価値観を内面化した当の子どもが、「なぜ自分は活躍できるような青年になれなかったか」と自問したとき、「親ガチャ」の失敗だったと結論付けてもなんら不思議ではない。

たしかに、現在はお父さんもお母さんも、サラリーマンとして「有用かどうか」をつねに測られている。お母さんまでKPIといった言葉に慣れ親しんでしまっている。それ自体はよくも悪くもない。が、自分の子どもを無意識に「評価」しすぎていないかと、われわれ親世代は胸に手を当ててよく考えなくてはならない。

現代の子どもたちは、他の大人や学校の教員なんかよりも、はるかに親の顔色をうかがっている。つねに勉強・聞き分けのよさといった評価に常にさらされているのだ。「学校のほうが気が休まる」と教員に言う子どもも珍しくない。

子どもたちは、「根拠のない無条件の安心感」を得られないことによって、「親ガチャ失敗」だったと無力感に苛まれるのではないだろうか。

「いっしょにいてくれてありがとう」

「ここにいてくれるだけでうれしい」

わたしたちはこうった感覚を取り戻さなくてはならない。

文・中沢 良平/提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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