西洋の人々の芸術観と、東洋のそれとは違う。フランクの二短調の2楽章は極楽のようだが、柔らかくすばしこく東西を走る弦の音が、虫の声のようだった。虫の音をノイズではなく「鳴き声」と捉えるのは日本人の脳の特性だが、ヴァイオリンは確かに虫のささやきを奏でていた。この微かさは、どのように楽譜に書かれているのか。マエストロが念力で読み取った徴なのではないかと思った。

小泉さんの音楽に感じる計り知れない「殺気」というか「凄味」がこの日もじわじわ来た。日本の指揮者が一番凄い、と日々感じるが、それは五感の可能性を極限まで究めた西洋芸術と向き合ったとき、こちらは五感を超えた六感、七感までを表現することが出来るからだ。洋の東西は壁ではなく、西洋を東洋が包み込む。「気配」や「無」までも指揮者は表現する。四季を四つの区切りではなく、二十四の節季に分けて認識する和の感受性が、無敵の音楽美を創り出していた。

3楽章は力いっぱいにアンセム的な歌に仕上げる指揮も悪くないが、小泉さんはこの楽章をもっと洗練された、ミステリアスな音楽として捉えていたように思った。力強いが、力は支配し強制するもので、それとは逆のものがあった。フランクを通じて表された人間の寛大さ、愛情深さ…何よりも愛だった。新日本フィルのトロンボーン奏者の騎士のようなたたたずまい、コンマスのチェさんの相変わらずの天才にも面食らった。19日のトリフォニーに行かなかったことが悔やまれる・・・世界中のオーケストラファン、指揮者たち、もう亡くなった指揮者にも聴かせたい演奏会だった。バーンスタインやヤンソンスもきっと、驚いたはずなのである。

新日本フィル × 小泉 和裕
(画像=『アゴラ 言論プラットフォーム』より 引用)

編集部より:この記事は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」2022年2月23日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は「小田島久恵のクラシック鑑賞日記」をご覧ください。

文・小田島 久恵/提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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