その後の上海臨時政府
金九は、彼が国務総理になった26年頃の臨時政府は「最盛期に千余名いた独立運動者がついには十数名にもならない程」になり、また32年の虹口事件後に蒋介石からの逃亡用飛行機の提供を「いたずらに他所の国の世話になることはないと思ったので、全て断った」と書いている。
32年以降から光復までの上海臨時政府の規模については、「百余人の大家族」(37年11月の長沙到着時)で、金九も母と息子を帯同したと書かれているので、「百余人」のうち3~4割の独立運動家と6~7割の家族の人数だったのではなかろうか。
金九は「いたずらに他所の国の世話になることはないと思ったので、全て断った」と書く。が、金九が32年の尹事件で手配されてから日本降伏の報を出張先の西安で聞くまでの13年間の拠点と資金調達で、実際には彼が如何に蒋政権に依存していたかを『白凡逸志』から拾ってみたい。
嘉興では「毎日船に乗って湖水に浮かんだり」していたが、活動経費は「中国人の友人の同情と米国同胞の支援で」困難はなかったようだ。そんなある日、仲間の朴南坡が中国国民党員だった関係で、国民党組織部長兼江蘇省主席の陳果夫を介し、蒋が金九に会見を申し入れて来た。
金九が「百万の金を与えてくれれば日本、朝鮮、満洲」で暴動を起こすとの計画を示すと、蒋は「特務工作に拠ったのでは、天皇を殺しても別の天皇が立ち、大将を殺しても別の大将が現れるから、将来のためなら武官を養成してはどうか」といった。
後に息子の経国に特務部門を仕切らせ(『蒋経国伝』の著者江南を米国で暗殺した事件など)、自身も若い頃から散々テロをやった蒋の言とも思えない。が、ほぼテロしか能がない様に思える金九は「願ってもないことです」と答えている。
36年2月に臨時政府は南京に移ったものの、37年7月の盧溝橋事件で「韓国人の人心も不安定」になり、国民党政府も重慶に移ったので、金九らも「物価の安い長沙へ避難」した。長沙では「中国中央政府からの補助と米国同胞の支援」で「高等避難民というに足る暮らし」だったらしい。
やがて長沙も危険になり、湖南の張治中主席の紹介で広東省広州に移転した(38年9月頃)。2ヵ月後、蒋介石への重慶に行きたいとの申し入れが了承された。重慶での金九の仕事は、①「大家族」を呼び寄せる、③米国・ハワイから資金援助獲得、③左右合作の団体統一の三つだった。
③の統一は結局、左を除く新しい韓国独立党(金九執行委員長)が出来、金九は議政院でも国務会議主席となった。この時、李承晩はワシントンの外交委員長になった。
蒋の国民党政府は「大家族」のために「瓦屋根の家三棟を立て、市内にも一棟を買ってくれた」。「独立運動を支援して欲しい」との要請には「冷淡だった」が、独立党と臨時政府の光復軍(40年9月設立)の経費は外国の同胞の送金と、蒋夫人宋美齢が代表の団体からの十万元の寄付で賄った。
『白凡逸志』の「上海大韓民国臨時政府」の規模と拠点と日常に注目すれば、一時の「十数名にもならない」規模が家族を含め「百余人」になり、それが尹事件以降の13年間、嘉興、南京、長沙、広州、重慶(7年)へと追随した蒋政府の様々な庇護の下で逃亡に明け暮れたということになろうか。
金九は、光復に際し「我々がこの戦争で何の役割を果たしていないために、将来の国際関係においての発言権が弱くなるだろう」と懸念しつつも「南北統一政府」を頑強に主張、「南だけの独立」(48年8月)を目指す李承晩の「密命を帯びていたといわれる刺客」に暗殺された(49年6月)。
念のため反共で素朴な民族主義者の金九を筆者は嫌いでない。で、筆者の好まない文大統領の「三・一演説」を聞く前に、金九の描いた「三・一運動の上海」を知っておくのも良いと思う。
文・高橋 克己
文・高橋 克己/提供元・アゴラ 言論プラットフォーム
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