2020年7月30日、中華民国(台湾)第4代総統を務めた李登輝氏が台湾・台北市内の病院で逝去しました。

李登輝氏は1923年、日本統治下の台湾に生まれました。1978年には台北市長に就任し、1978年には中華民国第7代副総統に就任します。

1988年には蒋経国総統の死去に伴い総統代行を務め、1990年には正式な総統として中華民国のトップに上り詰めました。

李氏は日本統治下の台湾にて日本語での教育を受けました。そのため岩里政男という日本名を持っており、日本語も堪能でした。

訪日の際は流暢な日本語を使いこなし、日本語で講演会を開くこともありました。

台湾において、李氏は民主化の父としてその名を知られています。また、中華民国と中華人民共和国という二つの中国を主張し、1946年から燻っていた国共内戦に終止符を打った人物としても知られています。

李氏の逝去は日本でも多くのメディアにより大々的に報道されましたが、外国の元首脳の訃報がここまで大きく報じられることはあまり多くありません。

大々的な報道の背景には、李氏が台湾と日本に与えた数々の功績が存在します。今回は李氏の生い立ちから、李氏が動かした日台関係、そして台湾の民主化に寄与した同氏の活躍を振り返ります。

目次
李登輝元総統ってどんな人?

 ▶︎激動の時代を乗り越え政界入り
 ▶︎政治改革に乗り出し、台湾を民主化へと導く
日本でも大々的に報じられた訃報、その理由
 ▶︎総統退任以降の訪日回数は9回
 ▶︎尖閣諸島問題や慰安婦問題では日本を援護
台湾の反応:台湾における李登輝氏の影響力
 ▶︎「静かな革命で台湾を民主主義に導いた、民主化の父」Facebookに多くの声
 ▶︎「台湾政局が未だ安定しない原因は李氏にあり」批判の声も
李登輝氏を通して知る、台湾が親日国家である理由

李登輝元総統ってどんな人?

李登輝氏は1923年1月15日、漢民族の支流である客家族の家庭に生まれました。警察官の父を持ち、父の転勤により小中学校は転校を重ねたものの、裕福な家庭環境の中で育ちました。

中学校を卒業後は、当時の台湾では最上級ともいわれた台北高等学校(現在の国立台湾師範大学)に入学し、同時に岩里政男という日本名を持ちました。

高校を卒業後、李氏は本土へと渡り、1943年には京都帝国大学(現在の京都大学)農学部農業経済学科に進学しました。

激動の時代を乗り越え政界入り

京都帝国大学にて学業に勤しむこともつかの間、1944年には戦争の激化により学徒出陣により出征し、終戦までの期間を名古屋の陸軍部隊で過ごしました。

終戦後には台湾へと戻り、台湾大学農学部農業経済学科で再び学業の道を歩みはじめました。

1949年に台湾大学を卒業した後は、1950年から1968年までの18年間にわたりアメリカへ留学し、専攻であった農業経済学の研究に邁進しました。

李氏は1968年に台湾へと帰国しましたが、当時の台湾には「白色テロ」と呼ばれる恐怖政治体制が敷かれており、李氏も様々な疑いをかけられ警察の取り調べを受けました。

白色テロの惨状を目の当たりにした李氏は政界入りを決意し、1971年には後に第3代総統を務めることになる蒋経国氏の推薦により中国国民党に入党しました。

政治改革に乗り出し、台湾を民主化へと導く

中国国民党入党後は農業の専門家として活動し、1978年には台北市長に任命されました。その後の1981年には台湾省主席に任命され、1984年には副総統に就任するなど、順調に政治家としての階段を登って行きました。

1988年、蒋経国総統が逝去したため李氏は急遽総統代行に就任しました。2年後の1990年には正式に総統に就任し、大胆な政治改革に乗り出しました。

李氏が総統に就任した当時の中華民国は中華人民共和国との戦時体制が維持されており、1948年に制定された臨時憲法(動員戡乱時期臨時条款)がその効力を維持していました。

李氏は1991年5月に同法を廃止し、戦後はじめてとなる民主的な憲法を制定しました。

これにより40年以上にわたり改選が実施されなかった国会も解散され、1992年には民主的な選挙により改めて国会議員が選出されました。

1994年には台湾省、台北市、高雄市の省長と市長が選挙で選ばれ、時を同じくして次回の中華民国総統選挙を国民による直接選挙とすることが決まりました。

また、総統の任期は1期4年、連続2期までと制限されたことにより、以前のような独裁政権が生まれる芽を摘み取りました。

このように、戦時状態の解除、民主憲法と民主選挙の制定、国会の解散総選挙、そして総統の直接選挙と任期の制定など、李氏は総統就任中に数々の民主化を断行しました。

台湾において李氏は今日でも「民主化の父」として評価されています。李氏は総統直接選挙の制定後に退任し、改めて1996年に実施された総統選に立候補し当選しました。その後は2000年まで中華民国総統を務め、台湾の政治体制を現状に見合ったものへと改革しました。

日本でも大々的に報じられた訃報、その理由

今日、台湾の法制度は世界でもトップクラスの民主的なものとなっており、国民投票による法律の追加や廃止が認められています。

日本の首相にあたる総統も国民による直接選挙で選出され、最近では高雄市長であった韓国瑜氏が市民投票により罷免されるなど、李氏の蒔いた民主主義の種は大きく成長を遂げました。

1985年から1945年の50年間にわたり台湾を統治し、現在では同じ民主主義国家として民間の友好関係が育まれている日本にとっても、李氏の訃報は衝撃的なものでした。

しかし、李氏の訃報がここまで大々的に報じられたことには、隣国の元総統であったというだけに留まらない理由があります。

総統退任以降の訪日回数は9回

中華民国総統就任中の李氏の日本訪問は、中華人民共和国当局による圧力もあり長きにわたり叶いませんでした。しかし、2000年に中華民国総統を退任して以降、計9回にわたり日本を訪れています。

総統退任直後の2001年には、持病の治療を目的に岡山県を訪れました。

その後、2002年には慶応義塾大学にて講演会を開くべく訪日を予定していましたが、日本政府により査証の発給が拒否されたため実現しませんでした。

2004年には家族旅行として、愛知県、石川県、京都府を訪れました。また3年後の2007年には東京都、宮城県、山形県、岩手県、秋田県を訪れ、松島などの東北観光を楽しみ、東京では靖国神社に参拝しています。靖国神社には、李氏の兄である李登欽氏が、英霊として奉られています。

2008年には沖縄県を訪れ講演会を開きます。その後は2009年に東京都、2014年に東京都、大阪府、北海道、2015年に東京都、福島県、宮城県、2016年に沖縄県石垣島、2018年に沖縄県へと来訪しました。ほぼ毎年、日本へと足を運んでいます。

外国の元首脳が計9回にわたり私的に日本を訪れるのは、大変珍しいことです。その背景には李登輝氏の日本との関係があります。李登輝氏は、日本語教育を受け、流暢な日本語が話せるほか、自分は22歳まで日本人であったと周囲に語るほど、日本との深い繋がりを覚えていました。

日本は中華民国を国家として承認していないため、李氏と日本政府の間には公式な交流こそありませんでしたが、2009年には東京青年会議所、2015年には国会議員会館でそれぞれ講演会を開いており、多くの政界関係者や著名人が参加しました。

尖閣諸島問題や慰安婦問題では日本を援護

日本はロシアとの間に北方領土、韓国との間に竹島、そして中華人民共和国と中華民国との間に尖閣諸島という3つの領土問題を抱えています。

尖閣諸島は現在日本が実効支配していますが、中華人民共和国と中華民国がそれぞれ領有権を主張しています。ところが、李氏は中華民国総統を務めたにもかかわらず、尖閣諸島は日本のものであるという考えを表明しており、こうした意見でも独特のポジションを確立しているといえるでしょう。なお、現在台湾の総統を務める蔡英文氏は、尖閣諸島は台湾のものであると明言しています。李登輝氏と蔡英文氏は多くの政治的意見を共にしていますが、この点に関しては異なる考え方を持っていることになります。

また、李氏は慰安婦問題についてもすでに解決済みとの立場を表しており、2015年には中華民国外交部が「日本政府は慰安婦問題について中華民国との合意に達していない」と抗議する場面もありました。

このように、李氏は尖閣諸島問題や慰安婦問題において、中華民国総統を務めたにもかかわらず中華民国とは異なる見方を持っています。李氏の考え方は日本統治時代から白色テロ時代を経て形成されたものであり、親日という言葉で形容できない複雑な過程があることがうかがい知れます。

台湾の反応:台湾における李登輝氏の影響力

李氏の逝去にあたっては、世界中からさまざまな反応が寄せられています。

安倍首相は7月31日の記者会見で「日本と台湾の親善関係、友好増進のために多大なご貢献をされた方であり、痛惜の念に堪えない」と述べ、哀悼の意を表しました。

また、アメリカ・ポンペオ国務長官は「台湾と活気に満ちた民主主義の絆を強化し続けることで、李氏の遺産を称えていく」と述べました。

一方、中華人民共和国・汪文斌外務省報道官は会見で「台湾独立は袋小路であり、いかなる人間や勢力も阻止できない」と述べ、アメリカの声明に不快感を示しました。

台湾において李登輝氏は「民主化の父」として称えられていますが、数々の改革を断行した姿勢には一部から異を唱える声も出ています。

「静かな革命で台湾を民主主義に導いた、民主化の父」Facebookに多くの声

現総統の蔡英文氏は李氏の訃報に接し、「李登輝氏は言うまでもなく民主化の父であり、激動の時代の中にあった台湾を静かな革命で民主国家へと導き、世界における地位を高め、健全で繁栄のある経済を築き上げた」と声明を発表しました。

また、現台北市長の柯文哲氏はFacebookにて「世論が何と言おうと、私にとって李登輝氏は一時代を築いた英雄であり、同氏が遺した民主の精神は我々が受け継ぐ」と述べました。

蔡英文氏のFacebookには民進党の支持者から「一生を台湾人と民主主義に捧げてくれてありがとう」「あなたがいなければ今日の台湾はなかった」「李登輝氏の民主精神は蔡英文氏が継いでくれる」など、生前の功績を称える声が多く寄せられていました。

「台湾政局が未だ安定しない原因は李氏にあり」批判の声も

李氏は中国国民党に所属しつつも、従来の中国国民党が敷いた独裁政権を捨て、民主化への道を切り開きました。

また、中国国民党はあくまでも中華民国の政党という立場を持っていますが、総統退任後には「中華民国は既に存在しない」と発言し、台湾という名の国を建立するよう呼びかけたことで、中国国民党からの批判を集めました。

李氏の訃報に接し、現中国国民党主席の江啓臣氏はFacebookにて「党員に複雑な感情を抱かせる人物だった」と述べ、元中国国民党主席の洪秀柱氏は更に「台湾の政局が未だに安定しない原因は李登輝氏にある」と述べるなど、李氏の政治方針に改めて異議を唱えました。

江氏の投稿には中国国民党支持者からも「彼は台湾を深く傷つけた、歴史の汚点となるだろう」「彼は日本人だ、葬儀は日本でやれ」「次は日本人に生まれると良いね」など、特に李氏の日本的な考えを批判する声が寄せられていました。

李登輝氏を通して知る、台湾が親日国家である理由

台湾は親日の国として知られています。台湾の平均月収は日本の半分以下であるにもかかわらず、東日本大震災の際には250億円を超える額の義援金が寄せられました。

また、2019年に最も多くの台湾人が訪れた外国は中華人民共和国を除くと日本であり、489万人を超える訪日台湾人が日本観光を楽しみました。

台湾人の日本人に対する好意的な感情が高まった原因は様々ですが、李登輝氏をはじめとする親日的な政治家が政治の舞台に立っていたことも親日感情が高まる一因となったといえるでしょう。

李氏は生前、幾度にもわたり日本を訪れ、日本と台湾の友好関係の発展に惜しみなく力添えをしました。

現在、日本の安倍総理と台湾の蔡総統は公の交流こそないものの、Twitterにて友好的なメッセージのやりとりを続けています。

李氏が大切にした日本と台湾の関係は多くの後継者に受け継がれ、今後も更に発展していくことでしょう。

文・訪日ラボ編集部/提供元・訪日ラボ

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