そこで21世紀の今日、ソーシャル・キャピタルをどう定義すればいいか。誰もが合意する内容がそれにあるのか。共通の理解が不可能なほどに、それは概念の広がりを持ち、むしろ様々なバリエーションに分裂したのではないかと見ていた。
キャピタルには必ず利息(インタレスト)がある
ヒントはキャピタルに伴う個人に還元される利息(インタレスト)があることにより、各方面で使われるようになったというのが私の判断であった。
この場合ソーシャルは「非経済的」な意味として使用されるのではなく、ソーシャル・キャピタルの存在により個人は助けられ、利息としてのサービス支援を受けるという文脈が重視される。とりわけ実際にもキャピタルは利息を個人に戻し、ソーシャル・キャピタルでは隣人や知人からの援助(ヘルプ)が前提におかれる。それは、まさしく経済から社会、社会から経済へと向かう動線が、このコンセプトの柱であることを示している。
近代経済学と現代社会学
ソーシャル・キャピタルの近代経済学的理解は、合理的な行為を前提としており、市場もまたその種の人間であるホモ・エコノミクスがもつ論理で動いている。損することは避けるし、説明可能な一元的規範が覆い尽くす。
一方社会学は、さまざまなテーマとして家族、地域、政治、異常行動など、言い換えれば近代経済学のフィールドから除外された市場外のものまで追跡してきた。
理論社会学が明らかにしたように、社会を束ねるものは価値と規範という社会的事実である。そして特定の地位を占めた人間はそれにふさわしい役割行動を行うから、地位が異なったり、時代が変わって規範が変質すると、一見非合理的な行為すらも生み出されてくる。
近代経済学は一元的で最良の選択肢の存在を語るが、社会学はいくつもの選択肢が見えるために、簡単には決定できないとのべるだけである。
幅広いコンセプトの使用
ソーシャル・キャピタルのもつ幅広いコンセプトの使用方法が容認されると、恵まれない地域での学校教育の失敗から経営者のパフォーマンスまで、周囲の人々や家族の間の助け合いから開発計画の成功まで、ロシアでの死亡率からタンザニアの村々の収入の差まで、民主主義のバイタリティから経済発展、統治まで、公衆衛生から青少年犯罪まで、政治腐敗から競争力まで包み込むことが可能になった。