あれは私が16歳のときだった。地元の兵庫県尼崎市から幼馴染と一路、東京に向かい、新宿歌舞伎町のコマ劇場前で寝ぐらを確保するために、1人で佇む女性をナンパしたことがあった。着の身着のままである。所持金もほとんどなかった。今思うと若さとは、恐ろしいものである。
その女性の家で1カ月ほど暮らすことになるのだが、私が声をかけたときにその女性から返ってきた言葉が、「ダウンタウンみたいな喋り方だね」というものであった。
あれから三十数年の歳月が流れたが、白状する。幼馴染とその女性と少しの間、寝食を共にするのだが、居候の身で本当に申し訳ないのだが、私はその女性が嫌いだった……すまぬ。正直者だと思って許してやってほしい。
そして、今年の年越しは歌舞伎町の知り合い宅で迎えたのだが、人生とはなかなか因果なものではないだろうか。
尼崎といえば、大抵はダウンタウンの地元として認知されており、少しガラが悪いようなイメージをもたれることが多いが、謙遜ではない。何もないのどかな街である。そんな何もないところから、ダウンタウンの2人は芸能界の頂点へと駆け上がっていったのだ。
それは尼崎出身の私にとって誇らしいことでもあった。だからこそ、私はいつも思っている。王者ダウンタウンすらも筆一本で超えてみせたいと。無理なことは十分に理解している。だが、目標はでかいほうがいいではないか。
私に地元愛みたいなものは、清々しいくらいない。どちらかと言うと、尼崎という街が嫌いだ。だが、その尼崎で私は生きてきた。短い学生時代を過ごして、何の人脈もないところから、ペンの力だけで道を切り開いてきた。この間も大それたことに、いつもダウンタウンという存在を目標にしていたのである。
そんな中での今回の騒動である。
週刊誌やネット媒体の仕事もしているので、少しでも大物相手のスキャンダルをスクープとして放ちたいというメディア側のスタンスを理解できないわけではない。私が現在、映像の仕事などで芸能界とかかわっていなければ、大物芸能人に関するどこにも負けないスクープを打つ自信だってある。
だが、今はそれをすることはない。単純な話で、仕事でもし本人や関係者と会うようなことがあると嫌だし、そもそもしたいと思わない。だからといって、スキャンダル情報などに関知しない立場でもない。私もお陰様で忙しくさせてもらっているが、その仕事のひとつがメディアコントロールを行う会社の経営だ。詳細は省くが、著名人や企業のネガティブ情報に対する危機管理が主な業務といっていいだろう。情報がメディアに出る前に制御するのだ。
そんな仕事をしているからこそ、よくわかる。話題になりそうな記事を週刊誌が放つことはもちろん否定しない。スクープを刺すほうも仕事である。
だがである。昨今のメディアの在り方や、メディアが放つスキャンダル情報を受けて、疑うことなくその対象者を叩きまくる社会の風潮には、思考の衰退、いやそれ以前に人間味の欠如を感じざるを得ない。どんなやり方でも燃えればいいのか。相手の人間の人生を変えていいのか。またその人間を支え、その人間に支えられている人たちの気持ちはどうなるのか。ジャーナリズムとは、とにかく話題になることを報じればいいという考えにいつからなったのだろうか。
一連のジャニーズ問題報道にしても今回のダウンタウンの松本人志氏の記事にしても、誌面上では、片側の言い分だけで相手の犯罪性を糾弾してきた。しかも、相当な年月が経って客観的に真実を追及するのが難しくなっている状況でだ。
読む分にはさぞおもしろかろう。王者、松本人志氏を快く思っていない人には、快楽すらあるかもしれない。だが、現時点で、松本氏を犯罪者扱いし、活動休止に追い込むまでの材料が本当に揃っているといえるのだろうか。