こども家庭庁は、「異次元の少子化対策」の財源として、公的医療保険への上乗せを提案したとのことだ。
その理由として、公的医療保険への上乗せで、現役世代のみならず、企業から高齢者まで幅広い主体が負担することになるからだそうだ。しかし、「能力に応じて」と付け加えられてもいる。
子育ては医療リスクではない公的医療保険は、そもそも、深刻な病気やケガに備えた社会保険であり、子育てはその目的にはそぐわない。
こども家庭庁のこの提案が有識者会議で認められれば、社会保険の形骸化はいっそう進むのは間違いなく、なりふり構わず現行の社会保障制度を守ろうという意図とは裏腹に、かえって社会保障制度への信頼を損ない、社会保障の拠って立つ基盤を自ら破壊することになるだろう。
社会保険料の目的外使用の歴史実は、社会保険料の目的外使用はこれまでにもしばしば行われてきている。
以下ではそのいくつかの例を見てみよう。
(1)厚生年金保険日本の厚生年金の起源は、工場等の男子労働者を被保険者とした1941年の労働者年金保険法の制定に遡る。同法は、1944年に厚生年金保険法と解消されると、被保険者の範囲を事務職員、女子にも拡大するなどとし、財政方式を積立方式として運営された。戦時下でありながら、国民の将来の老後の生活を慮って年金制度を創設したというよりは、保険料の徴収と実際の給付のタイムラグを利用して、戦費に横流しするためだったというのが真相らしい。
しかし、積立金は戦後のハイパーインフレーションで無価値となり、戦時下で約束した国民が年金を受給するにあたって困った政府は、実質的に有名無実化していた厚生年金保険を1954年に全面改正して、集めた保険料をその時の高齢者に給付することとした。つまり、形式的には積立方式だったが、実質的には賦課方式として運営されていたのだ。こうした経緯から、今でも高齢者は自分が払った保険料が年金として戻ってきていると信じて疑わないという側面もある。
(2)大規模年金保養基地(グリーンピア)問題1961年に国民皆年金が実現され、国民の多くが何らかの公的年金に所属し保険料を負担するようになると、負担する一方で何らの恩恵も年金制度からは感じられないという批判がなされた。そこで1972年に日本列島改造論を掲げて誕生した田中角栄内閣のもと、グリーンピア構想が具体化、1975年にはグリーンピア建設の「全体基本計画」が発表され、1980年から建設が開始、1988年まで建設が続けられた。
グリーンピアは、厚生年金保険及び国民年金の受給者が、生きがいある有意義な老後生活を送るための場を提供するとともに、これら年金制度の加入者及びその家族等の有効な余暇利用に資することを目的とした年金還元事業との位置付けであった。結局、年金積立金から建設費2000億円をはじめ、借入利息や管理費など総額3800億円が無駄に使われた。
私たちは、このグリーンピア事業は年金の無駄遣いに終わったことを批判しているが、当時は国民が求め政府がそれに応えたという事実を忘れてはならない。
(3)児童手当1960年代末から、各地で革新系首長が誕生し、社会福祉の充実が図られた。金満政治と批判され支持率を大きく落とした田中角栄総理は、こうした社会福祉の充実策を丸呑みし、国の政策として全国展開した。いわゆる社会福祉元年である。
その流れの中で、児童手当も創設された。実際に、児童手当法が成立したのは福祉元年の直前の1971年で、制度の開始は1972年だった。ただし、現在の児童手当と異なるのは、多子世帯の第3子以降を対象に行われたもので、現金給付を行うことで多子貧困対策として「家庭生活の安定」「子どもの健全な育成と資質の向上」を目指したのであり、いまのような少子化対策として行われたものではないことだ。
この財源としては、税のほか企業からの拠出金が充てられた。1971年度における拠出金率は1000分の0.5とされ、拠出金の徴収にあたっては、社会保険の立場から事業主を包括的に把握している厚生年金保険等の既存の被用者年金保険制度における保険料または掛金の徴収機構を活用するとされた。その後、児童手当の拡充とともに拠出率は引き上げられ、2015年には子ども・子育て拠出金へと名称が変更されたが、現在の拠出率は1000分の3.6となっている(ただし、1000分の4.5までの引き上げ余地がある)。