『小林秀雄全作品』13巻、191頁 強調は引用者

史実で書かれた「嘘の歴史」と言われると戸惑うが、小林にとっては自分自身につながってこない過去語りは、歴史ではないのである。米国に逃げのびたモーロワは、祖国の降伏を嘆くふりをしつつ、実際には他人事のように敗戦の過程を綴っている。だから外国の読者にもウケる。それは歴史の名に値せず、事実で作られた「嘘」に過ぎないというのが、小林の言い分である。

亡命中の人に対して、ちょっと厳しすぎるんじゃとも思うんだけど、その前後に置かれた文章を読むといま、結構グサッと来る。

フランスの敗北は、自分等にとっても大事件だと口には論じながら、本音はフランス一国くらい亡んだって、それが何んだ、こっちは毎晩ニューズ映画を楽しんでいるのだよ、と思っている、そういう読者のために、モオロアは、祖国の大悲劇を映画化することに成功している。
(中 略)
フランスは、まさにモオロアの描いた如く、興味津々たる姿で敗北したのであろうか、みんなモオロアにしてやられているのである。 ここに現代人の好尚がよく見える。解り易く、手取り早く話してくれ、しかも退屈しないように話してくれ、皆そう言っている。

ウクライナ戦争への言及が「手のひら返し」だと非難されて、そんなことはない、前と主張は同じだと突っ張る国際政治学者は、なにが批判されたのかもわかっていない。「ロシアの侵略は、日本人にとっても大事件だと口には論じながら、本音はウクライナ一国くらい亡んだって、それが何んだ、こっちは毎晩ニュースを解説して楽しんでいるのだよ」――という姿勢が、自分の喋り方の裏に見透かされたと気づけないからだ。

ある論説を評価するとき、「ファクトとして正しいか」「政治的に有益か」とはまた別に、自分ごととして考えているかという基準がある。小林はこの3つめの観点を、日本のインテリが軽視することに警鐘を鳴らしていた。庶民のやることは他人事、学歴のない人が考えることも他人事、インフルエンサーの自分にとってパシリ役のフォロワーなんて他人事……みたいな境地に、ついついなっちゃうのが有識者の癖だからだ。

書評の末尾で、小林はそうした同業者への苛立ちを痛烈にぶつけている。言うまでもないがこのとき、日本は日中戦争(当時の呼称では支那事変)の最中で、破滅的な対米開戦まで1年を切っていた。

こんな本を面白がるのが、文化人の特権だとは情ない次第である。自分に強制された、自分の鼻の先にあるものだけを面白がろうと努めた方がいい。 (中 略) それとも、同じ著者が、アメリカで「支那は敗れたり」とか或は「日本は何故勝ったか」とかいう本を面白おかしく書いてくれるかも知れない。それまで馬鹿面をして待っているか。

(同書、193頁)

もちろん実際に書かれることになるのは、「日本は敗れたり」「中国は何故勝ったか」だった。その点では小林も甘かった。でも僕たちにいま、彼を笑う資格があるだろうか。

ついこの前まで「ロシアは敗れたり」「ウクライナは何故勝ったか」という本が面白おかしく書かれるだろうと、ワクワク期待しつつ学者の解説を持ち上げる人が多くいた。しかし現実は非情だった。おそらくは書物のタイトルが逆になることに気づいたとき、「専門家の時代」は終わったのである。

編集部より:この記事は與那覇潤氏のnote 2024年3月15日の記事を転載させていただきました。オリジナル原稿をお読みになりたい方は與那覇潤氏のnoteをご覧ください。

提供元・アゴラ 言論プラットフォーム

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