だが本来の信用経済におけるプライドの使い方として正しいと言えるだろうか?仕事でのプライドとは「自分の営業手腕でこのお客さんを満足させて買ってもらいたい」といったものに活用されるべきであり、自分をよく見せるために使うプライドはズレていると感じる。そんなことをしても、お客さんは喜ぶどころか不快に感じてその相手から商品を買うことはない。

つまり、彼らは自尊心を守る代わりに、社会的信用を捨てている。このような行為は賢いとは認識されず、ますます賢者と見る人は減る。彼らがやっているのは一時的な快楽を取り、長期的に敗北する道を歩んでいるので賢者を振る舞うが結局、社会的な評価は愚者に行き着いてしまう。本人は賢者と認識されていると勘違いしているが、周囲はとっくに見抜いているがリスクを取ってわざわざそれを指摘しないだけだ。だから本人も永遠に気づかない。

そして最後の愚者のフリをした賢者だ。これは分量を割きたいので次の章に譲ろう。

バカを演じる賢者のヤバさ

本当は賢いのに、わざわざバカを演じる賢者は何がすごいのか?その意図は何か?その意図を言語化することに挑戦したい。

まず、賢い人というのは一定、敬遠される。誰しも見下されることに対して極端に恐れる。その理由はシンプルでマズローの欲求段階説でいう「承認欲求」を欠乏しているためで、バカにされる、見下されるのは承認欲求充足の真逆の行為だからだ。

自分より優秀な人と触れて、何か価値ある切り口や視点を共有してもらいたいという気持ちはありつつも、同時に「バカだと思われたくない」という不安は一定付きまとうことになる。そのため、その優秀な人物が知恵者であることはわかりつつ、人を見下すような人格の持ち主で無いか慎重に見極めてから接近するというコミュニケーション障壁が生まれてしまうのだ。

そこをしっかり理解しているので、彼らはわざわざバカのふりをする。本当はそんな愚かなことをするはずがないのに、分からないはずはないのに。すべては相手の心の警戒心を解き、心を掴むためにボケて笑いを取る。人間は自分より格下だと感じる相手には警戒しない。この心理を熟知しているからこそ、率先して素早く相手の下へポジションを取る。