さて、「本を読まない」のか、「本が読めない」のかニュアンス的に似て非なるものと考えています。「本を読まない」はそもそも本を読む癖や意志がないという意味合いが強い一方、「本が読めない」は読みたいのだけど物理的制約で読めないケースが想定されるのではないかと思います。

上述の三宅さんの本では会社に入ると忙しくて本が読めないという仮説をもとに話が展開しています。私はそれはどのレベルの話をしているか次第だと思います。この著者はもの凄い本好きで、あるYoutube番組で一日一冊レベルの話だと聞いていますので私の7倍もお読みの話なのです。仮に週1冊程度なら「女工哀史」「あぁ野麦峠」の時代じゃあるまいし、娯楽系の本なら2-3時間で完読できるものも多いので読む気さえあれば会社に関係なく、問題なくこなせるはずです。

本を読めないのを会社や仕事の理由にしたくなるのはわかるのですが、私から見ればそうではないと感じています。2時間という人が集中できる時間を何に配分するか、その選択肢が昔に比べ増えただけの話で読書への配分が減っただけだと考えています。つまり、わき目も触れず本に集中すれば仕事が邪魔するのは屁理屈です。大学のクラスが90分、プロスポーツ観戦が概ね2時間、コンサートや映画も2時間、テレビのスペシャル番組も2時間、混んでいるレストランのMaxも90分から2時間、そしてライトノベルの読了も2時間、つまり人が集中できる時間でその中で何を選択するか、です。(この90分から2時間の集中力は科学的に検証されています。)

「本を読まない大人」に本を読めといってもそれは苦行でしかなく10ページ読めば終わりです。不思議なものですが、読書だけは小学校ぐらいの時に癖をつけていなければ将来、厳しいと思います。今の小学生でも読み癖がある子とない子がいるようですが、ない子は残念ながら大人になっても読まないでしょう。小学生が書籍を読むかどうかは親にかかっています。家に書架があるか、そして整然と書籍が並べられ親がどんな本でもよいので読んでいるところを子供に見せているか、そこが決め手になると思います。子は親の背中を見るのです。