民進党の頼清徳が5月20日、第16期中華民国総統に就任した。就任式には世界中の民主主義国から新しい正副総統を祝福する代表団が多数駆け付けた。

白眉は前米国務長官のポンペオが、「米国は戦略における曖昧政策を終え、戦略上の必要性と道徳に基づいて台湾は主権独立国家だと承認すべきだ」と述べたこと。だが、頼新総統は冷静に蔡路線を継承する意思を表明し、独立派らしさは「中華民国」の代わりに「台湾」を連呼することでのみ表した。

第16期という枕詞が付くが、総統の人数は、中国国民党の蒋介石が48年5月に初代総統に就いてから8人目になる。但し、同じ政党が3期連続で総統を輩出するのは、96年に台湾が民主化して以来、初めてことだ。そこで、この機会に台湾400年の歴史を駆け足で振り返ってみたい。

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台湾は「Formosa」とも称されるが、これは大航海時代に沖を航行していてこの島を見つけたポルトガル船の船員が「Ila Formosa(美麗島)」と叫んだことに由来する。この「美しい島」が西洋の歴史に登場するのは、400年前の1624年にオランダ東インド会社が台南を拠点に台湾を統治してからのことだ。

この頃、「浜田弥兵衛事件」(タイオワン事件)と呼ばれる、交易上のトラブルで長崎奉行が台湾行政長官ノイツを拉致するという日蘭対立事件があった。この時に幕府がもう少し強硬に出ていたら、日本が台湾を統治していた可能性もあったと筆者は考えるが、その話は別の機会に譲り、先に進む。

オランダ統治までの台湾島では、7族とも9族ともされる原住民(台湾政府の正式呼称)が、3千メートル級が100座以上ある山地を中心に集落を形成していた。彼らは言語が異なるがゆえに交流はなく、文字もなかったので、17世紀までの台湾は明代以前の中国の古書にそれと思しき記述が散見されるに過ぎない。

明末1661年に鄭成功に駆逐されるまで、オランダは農耕に不向きな原住民の代わりに、対岸の福建省から漢人(苦力)を台湾に呼び寄せ、原住民から奪った土地に米やサトウキビ、そして牛まで持ち込んで耕作させた。東インド会社が1602年以降にジャカルタでしていたことを台湾でも行った訳である。

ジャカルタにいた福建人のブローカーを呼び戻し、大勢の漢人を台南に送り込んだ。漢人の生存率はジャカルタに運ぶより大幅に向上し、それまで原住民数万人だけだった人口は10万人ほどにまで増えた。が、ある政策によって、この時期に大陸から台湾に渡ったのはほぼ男性に限られていた。

その政策とは、明朝が倭寇対策で布いた「海禁策」と台湾での「反乱防止策」だ。前者は大陸沿岸に出入り禁止区域を設けて、無許可の海外渡航を禁止するもの、後者は台湾渡航を男に限ることで、家族を人質として大陸に残させるものである。「海禁策」は清代にも続いた。

ここで読者には、「男ばかりでは人口が増えないのでは」という疑問が湧こう。台湾の人口は清末には250万人ほどまで増加しているのだ。が、その理由を明確に書いている専門書は余り多くなく、李登輝時代に改訂された歴史教科書「認識台湾」でも触れられていない。

この人口増加の理由を、筆者は原住民のうち平地で暮らす平埔族(他は高山族という)という熟蕃の女性との混血の進展だと考えている。熟蕃とは漢人との同化が進んだ原住民のこと。清朝も日本も原住民を蕃人と称し、彼らを手懐けることを理蕃、居住地域を蕃界、集落を蕃社、子供を蕃童などと呼んだ。

偶さか平埔族にも婿取りの風習があった。林茉莉博士の研究に拠れば、本省人の8割ほどに原住民のDNAが認められるそうだ。混血と言えば、ここ70年余りの間に、蒋介石と共に戦後渡台した150万とも200万ともいわれる外省人と本省人との混血も進んだ。

本省人とは、戦前から台湾に居住していた人々(日治時は本島人と呼称)のことで、終戦時には約600万人(原住民を含む)いた。他方、外省人とは台湾省(清朝は康熙帝の時代に台湾を省として版図に入れた)以外の人を意味する。

国立政治大学が毎年実施している世論調査では、「私は台湾人だ」と答える者が今や7割に迫る一方、「私は中国人だ」とする者は数%に過ぎない。筆者は、その理由の一つが、先述の「認識台湾」が従来は中国史の一部だった台湾史を台湾中心の記述に改めたことであり、二つ目が後者の混血と考えている。